散文とロマンティック

旧映画生活の備忘録

ジグソウ:ソウ・レガシー

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リブートと謳われるも、内容としては前作までのストーリーを正当に継承するシリーズ8作目の続編と言って違わないもの。つまり、回を重ねる毎に下降を続けるシリーズの最新作にして、出来の方も言わずもがなの……。

せっかく、原点に倣った、どんでん返しに注力したシナリオはなかなかの切れ味にもかかわらず、最後の最後にお約束を外す……画龍点睛を欠く、なんとも消化不良なハイライトなき惰性。

結局、第1作の衝撃とジグソウのカリスマというレガシーの影響力をまたしても再確認するだけの続編に間違いなかったのだが、何が恐ろしいって、9作目が作られればそれは、見ないという選択肢は存在しないということだ。

いつの間にか、逃れられないゲームの参加者。救いの道なき新章の客人は。もう罪ではなく、趣味の問題によって自ら不自由を欲求する倒錯者。


☆2.9

ポセイドン

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古き良き、幸運な、映画の出会い方。
たまたまつけたチャンネルにちょうど映し出されたワーナー・ブラザースのオープニングロゴに導かれるように、タイトルも何もわからないまま──舞台は豪華客船。どうやらパニックムービーの予兆──ほどほどのモチベーションでながら見を続ける。主演のカート・ラッセルと、『オペラ座の怪人』、最近では『コメット』も記憶に新しいエミー・ロッサムの姿を確認し、ソファーに深く腰掛ける。ステージ上の歌姫に目をやればブラック・アイド・ピーズファーギーじゃない!ここで現代人の悪癖、スマートフォンを手に取り検索をはじめ、どうやらあの名作『ポセイドン・アドベンチャー』のリメイク版であることを知る。これまた珍作の予感がするも、もう後には引けず……。

オリジナル版が"Leap of faith" の葛藤に打ち勝つ人間の証明であるならば、今作にそのような力強いメッセージは内包されない。ただし、刻一刻と危機が迫る船内からの脱出を目指して"Keep on movien'" リアルタイムアクションの緊張と興奮は、やはり人の心を熱くするものがある。

今作において、神は人間を試さないし、彼らも祈る暇があれば足を動かし、歩を進める。
なにせタイムリミットは90分。世の不条理を恨んでいる場合ではない。
死が目前に迫った時、選択肢はそう多くない。生きるための要件はシンプルかつ究極的に本質的に。その潜在能力が力強く立ち上がる。


☆3.1

キングス・オブ・サマー

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少年は優しすぎるがゆえに臆病で、ぶつかり合うことなく、分かち合うことなく、望むべくして独りを選んだ。

拳を交える友も。
夕暮れに恋を語り合う友も。
大人の真似事や危険な遊びを共謀し、共に火傷する友も。
冒険に出かけることも、友と、丘の上に立って自由を叫ぶなんてこともなかった。

だけど、「彼ら」(今更その関係性の呼称がどうだなんて無粋だろう)の存在がいつだって少年をひとりぼっちにはしなかった。

彼らはいつも少し未来にいた。だからすべてお見通し。つまりは多くを語ることもなかった。

言葉が足らずとも分かり合えてしまえば、やはりぶつかることはない。彼らの優しさが本当の孤独を覆い隠した。

そんな優しい幻想がたった一度、現出した夜の残像──。
天を見上げ、明滅する光と轟音のオーシャンへ手を伸ばせば──
今もスローモーションに再生される思い出の1シーンは、その名も『無題』。永遠に思えたあの夜の多幸感はそれまでの人生、そしてこれからのすべてを肯定するのに十分だった。
人生に問いがあるとすれば、それが答えではなかったか。

叶い得なかったひと夏の思い出に未練などあろうはずもない。凡庸な通過儀礼を経て大人になりたがったことなどあろうはずもない。

現実の可能性よりも、過去を映したあるいは虚構に救いを見出す。
秘密の“王国”に籠城し、似合わない口髭で、ぎこちなく中指を突き立てて。それは子どもじみた反抗を続けているつもり。
反抗、それは彼らに倣ったアティチュード。

失うことを何より恐れる少年は、ただ独り少年のまま。誰もが過ぎ去った季節に留まろうと、青春の刹那を延命させようと、その愚かさを恥ずかしげもなく綴る「散文とブルース」、否「散文とロマンティック」なのだ。


☆3.9

The Youth

The Youth

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ソウ ザ・ファイナル 3D

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因果応報のサイコスリラーがただのトーチャーホラーに成り下がり、ついにそのグロテスクもコメディーに転倒しかねない、もはや失笑のシリーズ完結編。
なんて言いながら、10年遅ればせながらも全作コンプリートしてしまったのは、第一作の衝撃に見合った長い長い余韻とでも言い得ようか。

終わりよければすべてよしとも言えるし、物語を終わらせることが何よりのファンサービスだとも言える幕切れだろう、正真正銘の「ゲームオーバー」。
だがしかし──。

“クリアドーン”
夢の終わりは一日の始まり。すなわち、悪夢はつづく。


☆2.6

ソウ6

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フロムダスクティルドーン。
一日の終わりは夢の始まり。無論、悪夢とて。

人々が寝静まった頃合い、丑三つ時なんて理想的なシチュエーション。静寂と暗闇に包まれた孤独の一室で、なぜにホラーを、死の遊戯を眼前に、恐怖を欲望するのか。

それは生が死に直面する非日常の風景に。起こりうる限りの非現実的な、あるいはつまり虚構にこそ、生の実感を得られる者の性。

「命の価値は」「生きる意志は」などという、白昼には許されない寝言、たわ言が共鳴するところ。
ホラーは人の生死を問うがゆえ、あたかもその深淵に触れているかのような錯覚を保証してくれるもの。

最もアンリアルな、それでいて誰しもが当事者たりえる、空想でありながら身の毛のよだつ恐怖──その真実性を疑うことなく貪り続ける、夜行性の獣たち。


☆3.0

シンデレラ

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保守的であることがすなわち悪であろうはずはないが、愛と知性を持ち寄ってより良い社会を目指そうとする進歩主義が否定される謂れもあろうはずがない。

ただし、正義にかこつけた前時代へのアンチテーゼにはある種の暴力性が内在することに自覚的でなければならないのも確か。ポリティカル・コレクトネスを自動翻訳するかのような、むしろ愛も知性も、想像力にも欠けた正義の乱用による反発、軋轢はもしや深刻な世界の分断をすでに引き起こしてしまったのではないかと憂慮もされる昨今。

そんなきらいはディズニー映画の世界とて例外ではなく、女性の自立をプリンセス(あるいはヒロインから女性ヒーローへ)の能動性に仮託するようにして、むしろ社会運動を牽引する象徴のように、新時代のニュースタンダードが表現の領域においても刷新されていく。当然、支持されるべき道と喝采を送りながらも……早すぎやしないか、正しすぎやしないかと、一抹の不安を覚えつつ、やや窮屈にも感じつつある本音を隠しきれない。

そんな折に、ディズニークラシック、その継承を謳う今作の寧ろ新鮮な歓び、心地のよさ、安心感。

緩やかな革新性を織り交ぜて、王道の“シンデレラ・ストーリー”を鮮やかになぞる。映画という「魔法」によって差し伸べられる「優しさ」に癒される。

振りかざされた拳も解かれよう。

「勇気」ばかりが称揚され、正論が幅を利かせる、正しさという新しさと息苦しさとの間で。
時代遅れ、場合によっては不道徳ともなりうるノスタルジーへの寛容もまた多様性の証左ではなかろうか。やはり表現の自由においては。


☆3.0

グランドフィナーレ

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映画という魔術的なメディアの。まさしく“マエストロ”というべき天才の。つまりは自殺的な、自作自演の──。

恍惚を呼ぶ映像美の、淀みなく続く緊張と弛緩。構図の妙に絡み合う音楽の官能。

映像と音楽の、その魔術的な言語を理解するのに言葉は要しない。大きく傾いたリクライニングソファに全身を預ければ、ただそこにあるだけの陶酔に浸り、網膜から、鼓膜から、触覚に至るまでの五感に沁み入る幻に移入するとき、刹那の永遠に、僕らは自由を錯覚しうる。

遠い過去の記憶、あるいは近い未来への眼差しとてカメラのレンズを通して。世界のすべてをその画角に収めるように。恋や哲学や、“若さ”といった幻想の美を語らう、それが人生。その感動こそすべての人生を愛した才人の。
グランドフィナーレの静寂よ。


☆3.8