散文とロマンティック

旧映画生活の備忘録

気狂いピエロ

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「人生が物語(ロマン)と違うだなんて、悲しいわ」

彼女に恋をして、映画に恋をした。
アンナ・カリーナへのゴダールの眼差しを借りて、叶わぬ愛の変遷を辿る。叶わぬ愛の思い出を投影する。映画と共にある人生の第二幕はこの『気狂いピエロ』に始まった。

僕にとって映画とは、ヌーヴェルヴァーグのことだった。僕にとってのヌーヴェルヴァーグは、ゴダールトリュフォーアンナ・カリーナのことだった。アントワーヌ・ドワネルを分身に自分を撮り続けたトリュフォーと、アンナ・カリーナとその分身を撮り続けたゴダール。僕にとっては共に“愛のシネアスト”。愛を語れば、愛に翻弄される愛のアマチュアなる男たちの哀歌が、絶望の淵に沈んだ人生に新たな夢を見させたのだ。覚めることのない夢を。過去を夢見る悲しみの愛おしさを。

「僕らは夢で作られ、夢は僕らからできている」

そんな夢を、人生を救った至高の映画体験を稚拙な解釈で上書きしてしまわぬよう、一度たりとも見返すようなことはしなかった。ゆえに語る言葉を持たない。“思想”も持たない。しかし“感情”の記憶が色あせることはない。曖昧は曖昧のまま。あの日、夢うつつを揺蕩い、半覚醒の無意識に沁み込んだトリコロール、引用の氾濫、無邪気に歌い踊るアンナ・カリーナと、憐れで滑稽なベルモンドの自死の顛末は、おぼろげながらも色鮮やかなまま。脳裏に焼き付いて離れない映画原風景とも呼べる光景。忘れ得ぬ愛の逃避行が、いつの夜の闇も心の片隅を照らしているのだ。

見つかった
何が
永遠が
海ととけあう
太陽が

アンナ・カリーナよ、永遠に。
彼女ほど「永遠」という言葉に相応しいミューズを僕は知らない。


☆Review